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2010年12月 アーカイブ

2010年12月04日

2003年10月。沖縄へ

 2003年の10月。僕と妻は二人で沖縄へ引っ越すことに決めました。

***

 大きな決断だと思う。それなのに僕達はいともあっさりとそれを決めてしまった。

 いつも通りだった僕達の生活、それと、今、目の前に広がっている新しい生活、このまったく違う二つの人生の分岐点となったのは、なにげない一日のほんの一瞬の出来事だった。(その日のことはこの後詳しく思い出してみたい)

 これを書いている今の時点で、どこまで僕たちが進めるのか、成功するのか失敗するのか、まったく検討もつかない。この文章がどこまで続くのかもわからないし、もしかしたら今の会社を辞めることすらできずに終わるかもしれない。

 すべては僕たちの本当の意味での力にかかっている。僕たちは疲れるだろう。ぼろぼろに疲れて、初めに定めた目標すら見えなくなってしまうかもしれない。そんなときにはこの文章をはじめから読み直したらいい。ここには今の本当の気持ちが書いてある。

 負けるな。
2003年10月 安藤昌教

一年の重み

僕は会社員です。

***

 大学を卒業し、今の会社に就職した。就職が決まったときには、それはもう、うれしかった。この先長く会社員として普通に暮らしていくものだと思っていた。
 
 24歳でこの会社に入社した僕は、今28歳になっている。いつ頃からだろう、25歳を過ぎた辺りだろうか、一年で一歳年をとるということが、少しずつ窮屈に感じるようになってきた。25歳から26歳への一年よりも、27歳から28歳への一年の方が少しだけ重かったように思う。この先その重みはさらに増していくに違いない。
(僕の感じた一年の嫌な「重み」は、自分の年齢と現状とのギャップにより生じるものではないかと思う。その一年が自分にとって納得のいくものならば、その「重み」は次の一年へのしっかりとした基礎となる。それは「よい重み」となるはずなのだ。)

 この「重み」を解決するには、それを忘れてしまうか、それとも自分で何とかするか、この二種類しか方法はないと思う。

 もう少し今のままを続ければ、何か自分の中で割り切れるときが来るのかもしれない。だけどいつまでたっても割り切れない場合が悲惨だ。かといって今の僕には明確な目標がないのも事実。明日は今日のコピーで、一年後の僕もやっぱり今と同じように毎日をこなしているのだろう。それはとうてい充実した毎日であるとは思えない。

 僕は何か確かな手ごたえが欲しかった。

 この先もっとずっと年をとってから、僕は自分の人生を愛する人たちに自信を持って話したい。そしてなにより僕自身、重ねた年に納得していたい。自分自身の人生に責任を持ちたいのだ。

 動き出せるのは今しかないように思えた。後に延ばせば延ばすほど重さは増し、体力はなくなる。これ以上時間を無駄にしてはいけない。

 こうして僕は自分で何とかする方の道を選んだ。

2010年12月05日

なんとなく考えていたこと

と、まあ仰々しく書き始めてはみましたが、あまり重く考えるのも疲れるので

***

 確かに最近になって、漠然と「このままじゃあいけないよな」「なんとかしなくちゃ」という思いだけはあった。だけど具体的に何から始めたらいいのか全く分からない。おれは夢をかなえるために仕事を辞めるのだ、といえるほどたいそうな夢も実のところ、ない。

ただ一つ確かに考えていたことがあった。時間を無駄にしてはいけない、ということだ。
 
 テレビはテロやら戦争やらで、毎日ものすごく多くの人たちが不意になくなっているというが、その人たちと僕との違いとはいったい何なのか。彼らも恐らく僕と同じように、朝、目を覚まし、会社に行く途中だったのだろう。その時偶然テロに遭い、人生が奪われてしまったのだ。同じことが自分に起こらないなんて誰が保証できるだろう。僕達がこうして何気なく生きていることは、実はものすごく確率の低いことなのではないか。せっかく人生に与えられた時間を無駄に過ごしてはいけないのだ。

 そんな思いがずっと僕の頭の隅のほうでくすぶっていた。そしてある日をきっかけに、その火はどーんと一気に燃え上がった。ガスが充満した部屋のドアが何かの理由で開けられたとたんに吹き飛ぶ、バックドラフトみたいな感じに、ある日突然どーんと、人生の扉が吹っ飛んだ。

10月のある日、僕と妻はリフォームの終わった部屋に置く、ソファを探しに出かけた。

ある日の出来事

10月のある日、僕と妻はリフォームの終わった部屋に置く、ソファを探しに出かけた。

***

 僕達は会社の社宅に住んでいる。家賃がすごく安いので文句は言えないのだが、まあ古くて汚い部屋だ。床が学校の教室の床みたいだったり(隙間にたまったごみをほじくり返すとシャープペンの心が出てくる)、ふすまの立て付けが悪かったり(勢いをつけて開けようとすると開くのではなく、取れる)。よく言えばレトロ。だけどおしゃれではない。椎名林檎さんのPVに出てくる部屋というよりも、どちらかというとドリフのセット。

 そんな我が家がリフォームされることに決まったのは、正確には覚えていないけど、この年の夏頃だったと思う。会社の予算が何かの拍子にぽんとついたのだろうか。部屋の古さに少なからず不満を持っていた僕達にとって、リフォームの話は朗報だった。

 一ヵ月後の完成を待つため、僕達は少し離れた別のドリフのセットへ一時的に引っ越すことになった。この時点ではこの先当分の間、この社宅に住むつもりだったのだ。そうでなければわざわざ二度の引越し(一度出て、また戻って)をしたりはしない。その部屋に置くためのソファを探しに行ったりもしなかっただろう。僕達はそうとうに面倒くさがりなのだ。

 その日、僕達は家具屋を何軒か回って、リフォームの終わった部屋に置くソファを探していた。正直に言ってどれも同じように見えたのだが、その中でもまあ妥当だろうという感じのものを一つ選び、二人で掛けてみた。確か白くて、やわらかくも硬くもないソファだったと思う。はっきりとは憶えていない。まあ、そのくらい特徴のないものだったのだろう。実のところ僕は消極的だった。うむ、あまり欲しくない。

 そんな「妥当だけどあまり欲しくないソファ」に二人で掛けながら、僕は妻に話した。
「一生あの部屋に住むわけじゃないんだからさ、できるだけ荷物は増やさないほうがいいんじゃないか。」

 いつかどこかでお店を開きたい、という話は結婚する前からちょくちょく話題に上っていた。だけどそのための資金もないし、今の仕事もお互いある程度安定している。どうも一歩を踏み出そうという気にはならなかったのだ。ところがこの日、どこかの特徴のない家具屋で、少し疲れた僕が妻にソファをあきらめさせようと発した言葉が、予想もしない自体を招いた。

「それってあの部屋をでようってこと」妻の語気がなぜか強い
「うむ」
「・・・」
「まあ、いつかは、ね」僕は既に弱気だ
「いつよ」
「はっきりとはわからないよ。ただこの先どこに移るにしても荷物は少ないほうが身軽でいい。」

 僕は戸惑いながらも「向こう側」に憧れていた。小さく開いた堰の穴に水流が集中し、やがて大きな目に見える穴に成長していくのが見えた。

「じゃあいいわよ、ソファなんて買わなくって」
堰が崩れる。やばい、なにか言わなきゃ

「どうだろう、このまま地道に貯金していてもらちがあかないんじゃないか。いっそ始めてしまうというのは。」仕事辞めてお店開くって計画、始めちゃってみてはどうか。いや、始めちゃおう。」
 どこかで夫のプライドみたいなものが作用したのだろうか。こうなったら言ったもん勝ちだ、と思いこみ、言っちゃってみた。

「いいよ」
あらま意外と妻も乗ってきちゃった。

 向こう側にあるはずの自由を夢見て、すっかり振りきれた夫と、なぜか強気に乗り気な妻。完璧にいかれた夫婦だ。

 この日のこの瞬間こそが、僕達にとって崖の先端から一歩を踏み出してしまった瞬間なのではないかと思う。この時を境に、僕達はそれはもう加速的にこの話を進めていった。

候補地選び

で、どうして沖縄なのか、と言う話ですが

***

 どうして沖縄なのか、と理由を聞かれると正直困ってしまう。たいてい「だって暖かそうじゃないですか」とかなんとか言ってごまかしているのだが、要するに正面から人を納得させられるような理由はないのだ。まあこの話自体ずいぶん唐突に決めたことなので、僕たちの中でさえ、今でこそ落ち着いてきてはいるものの、あの一歩を踏み出した瞬間から、実に長い時間をかけていろいろなことに説明をつけてきたのだ。

候補地は他にもいくつかあったのです

 新しく生活を始めるにあたり、僕たちなりにいくつかの条件というか、こうしたいという希望があった。わざわざ今の生活を放棄してまで新しい生活を始めるからには、自分たちが納得のいくものにしなくては意味がないのだ。

 まず始めに、無理をせずに自分達のペースでやれる環境が欲しかった。そのためには、あまりに都会すぎても僕達のリズムに合わないような気がした。それから(これは僕にとって非常に重要なのだが)なんとしてでも海の近くに住みたかった。これまで以上にサーフィンをしたいというのは少々ぜいたくだとしても(以前は海まで歩いて行ける場所に住んでいた)、せめて毎日海へ通える範囲に暮らしていたい。きれいな海があって、温かい人間がいて、そんな、僕達と将来の家族がこの先長く暮らしていける場所でありたいと思った。

実際に沖縄が候補に挙がったのは、意外と遅くになってからだったと思う。

 きっかけはたぶん僕が思いつきで妻に話したのだろう。まただ。僕の思いつきと、妻の食いつきはまるで恐れを知らない。沖縄にはきれいな海があって、人も気候もあたたかい。その魅力にあこがれて本土から移住して行く人もたくさんいるらしい、とかなんとか言って妻の興味をちくりちくりとつついたのだ。

 この頃の僕達は、ただ漠然と会社を辞めてどこかへ移る、ということだけははっきり決めていたのだが、そこから先には一向に話が進まなかった。今思うと、お互いに少しあせっていたのかもしれない。そんな僕達の間に生まれた、焦りと不安で少し乱れていた領域に「沖縄」はすごく自然に入り込んできた。たぶん不安を期待で押しつぶしたかったのだろう。

 いいんじゃないか、沖縄。暖かそうだし、楽しそうだし。
 うん、賛成。
 ほい決まり。

いや、旅行に行くのではないのだぞ。

こうして僕達はほのぼのと人生の方向付けをした。

問題山積

あまり考え過ぎないようにはしているのですが

***

 僕達が沖縄に引っ越すことを決めるにあたり、やはり問題はいくつもあった。そんな問題を順番に乗り越えていくうちに、僕達は自分のしていることの重大性を再確認することになる。と同時に、自分の力で人生を切り開いているという実感を得ることにもなった。今回は、その中でも僕にとって大きかったものをいくつかあげてみたい。

会社辞めさせて下さい

 ダメ社会人の僕であっても、4年も働けばそれなりに責任や役割も生じる。徐々に重要な仕事を任せられるようになり、僕にしかわからないような仕事もいくつか抱えるようになっていた。そんな中、会社辞めさせて下さい、なんて言うのは、これまで目をかけてくれた上司や同僚にすごく申し訳なく思った。

 10月のある日の午後、僕は意を決して上司のところへ話をしに向かった。自分の席から上司の席まで、歩いて10秒の道のりは果てしなく長かった。わきの下にはへんな汗をかいて、頭がふらふらした。
「**さん(上司)、少し話しがあるんですが」
たぶん僕は緊張やら罪悪感やらで、今にも死にそうな顔をしていたに違い無い。前の日まで海外出張をしていた上司は時差ぼけで眠そうだったが、今にもぶったおれそうな僕の顔を見て「こりゃただ事ではない」と思ったのだろう、快く時間を割いてくれた。そして約1時間におよぶ話し合いの中で、僕はわきをへんな汗でべたべたにしながら、何度も何度も上司に謝り、上司は腕を組みながら何度も何度もうなずいていた。

お父さんお母さんごめんなさい

 僕達はすでに大人なので、自分達の人生くらい自分達で決めることができる。だけど、逆に僕達の両親くらいの年になってくると、これからの人生に対して、自分達の子供になんらかの期待を寄せるようになってくる。それを裏切るのはやはり気持ちの良いものではない。これまで散々親孝行してきたのだ、たまには期待を裏切ってみてもいいんじゃないか。と言えるほどできのいい息子だったらよかったのだが、あいにく僕には、両親に対してなんとなく後ろめたいような思いしか持ち合わせていない。

みんなのことが大好きです

 僕は日々の生活の中で、いくつかのことに対しては特別に執着を持って生活していた。中でも特に大切にしているもの、それは友達だ。僕はここで出会った友達とどうしても離れたくなかった。
 僕が仕事を辞めるという話を聞いて、中には好き勝手なことを言ってくるやつもいた。
「あ、そうなんだ。そしたら退職金でとうぶん飲めるね」
うむ、死ねい。
 本気で心配して、やめとけよ、と言ってくれるやつ、ふざけながらも応援してくれるやつもいた。そんな友達の一人一人の顔を思い出してしまう。

 どうしたらいいのだろう。
 
 僕は自分の人生を立て直すために、大好きな友達と離れる選択をしてしまったのだ。だからといって僕は、自分の人生と友達とを天秤にかけて、その結果自分の勝手を選んだというわけではない。言い訳がましくなってしまうが、僕は自分の大切な人に、いつまでも僕のことを好きでいてもらいたいのだ。そのためにも僕は、自分の人生を立て直す必要があった。そうしなければ、いつか僕は近くにいる友達すら失ってしまうのではないかと思ったのだ。

 問題はいくらでもある。それらはこの先、一つ消えては、また一つ生まれるだろう。その中を歩いていくのだ。多少曲がりくねっても仕方がない。ただ前に進むことを忘れてはいけない。それを忘れたら、すべてが言い訳になってしまう。


本当の辛さ

僕は明日、最後の出社をします

***

 去年の10月、会社を辞めて沖縄へ引っ越すことを決めた時は、この日までの道のりがすごく遠いものに思えた。早く仕事やら、その他いろいろなことにけりをつけて新しい生活を始めてしまいたい、と切に憧れていた。ところが今は逆に、今日の一日が惜しいとさえ思う。カレンダーの3月と4月との間にあと3ヶ月くらいあればいいのに。いっそ4月なんてこなければいいのにと。そんな具合に、にわかに沸き上がった弱い気持ちが日一日と大きくなり、僕の心を染み浸していた。

 前にも書いたとおりですが

 沖縄へ行くことを決めてからというもの、僕達の前には超えなくてはならない壁がいくつもいくつも現れた。だけど今になって思うと、僕達は多少躓きもしたが、まあ順調にここまでこれたんじゃないだろうか。ほとんどの問題は解決に向かっている。新しい生活を始めるための家も見つかった。会社には無事に辞表を提出し、上司も今となっては笑顔で「遊びに行くよ」なんて言ってくれる。万事順調だ。なのになんだろう、こんなに心がぼろぼろになっているのは。

 本当の辛さの始まり

 3月末の休日、僕と妻はいつもより少しだけ早起きをして、その日一日の計画をメモ帳に書き出した。市役所へ行くこと、銀行へ行くこと、郵便局とホームセンターへ行くこと、それから引っ越し社と車の運送業者へ電話をすること。ここから離れるための準備が始まっていた。

 前の日の晩は、僕と妻の友達が集り、盛大に送別会を開いてくれた。僕は彼らの一人ひとりに、自分の中にある「その人の印象」をより深く刻み付けようと、頭の中で何度も噛み締めながら話をした。「そうだったよな、今は本社にいるんだよな」「結婚したんだよね、おめでとう」。みんなは僕の気持ちを見透かしているかのように、明るく「遊びに行くからさ」と言ってくれた。ちゃんとおぼえてるからな、絶対に遊びに来いよ。僕は、今にも泣き出しそうなのだ。

 3月に入ってからというもの、時間が許す限り、僕はひたすら友達と酒を飲んでいる。そりゃあこれだけ毎日のように飲んでいたら、身体だって黙っちゃいない。胃だか腸だか分からないけど、どこからともなく腹が痛くなり、肌が荒れて、両耳が中耳炎になった。だけど僕は無駄な時間を過ごさないように、みっしりとスケジュールに酒の席の予定を投じた。

 大好きな友達と会う度に、そしてその日の席を終えて別れる度に、僕は心がぼろっとくずれそうになる感覚を味わった。ならば飲みになんて行かなければいいのに、と思うかもしれない。しかしそうもいかないのだ、なんといっても僕はこいつらと一緒にいることが好きなのだから。

 大好きな友達と離れるために毎日そいつらと楽しく酒を飲む。本当の辛さはここにあった

 引っ越しは4月7日。この一週間は僕にとってとてつもなく長いものになるに違いない。

引っ越しました

沖縄です

***

 ようやく落ち着いてきました。引越しが、というよりも、自分が。
3月後半に陥った底なしの鬱状態を乗り越え、というか結局乗り越えられなかったのかもしれないが、時間が勝手に過ぎ、4月に入ると徐々に気持ちが上向きになってきた。あの時あんなにいろいろ悩んだのが、今ではすごく昔のことのように思える。
 一つ前のライフレポートとか読むと、いやね、その気持ちもわかるけど考えすぎだよおまえ、とか思う。だけどあれを書いたのもやっぱり僕なのであって、時間の流れの偉大さというか、考えてもどうしようもないことはしばらくほうっておくのがいいのだ、という人生の大切な法則みたいなものを実感している次第。

 4月に入って上を向いてきたとはいえ、こちらに来て1週間くらいの間は、僕なりに相当深いところを漂っていた。昼間の間は、事務手続きやら引越しの荷解きやら、それから沖縄の強烈な日差しを避けるのに精一杯だったりして、あまり何も考えなくてすんだ。だけど夜になればやっぱり沖縄でも涼しい風が吹く。昼間ちゃんと動いているので、夜には疲れきってしまい、その疲れが僕たちの気持ちの弱いところに涼しいすきま風みたいに入り込んでくるのだ。うう、さびしいよう。
  こういう風に1週間くらいは、夜な夜などんよりとさびしい気持ちになっていた。ホームシックってこういうことをいうんだ、と初めて思った。

ようやく、ですが

僕が今それなりに立ち直って、ああなんか楽しいかも、と思うことができていられるのには、いくつもの支えが必要だった。具体的には、こちらで友達ができ始めたということ、海に入ることができ始めたということ、それから僕には妻がいるし、やっぱり一人ではないということ。一人では生きていけないのだ、やっぱり。

切り替えなきゃ

 ということで会を増すごとに下へ下へともぐり続けてきたライフレポートは、ここでひとつ区切りをつけたい。ここからはぱーっと力みなぎり血沸き肉踊るライフレポート第二章、沖縄編をはじめます。みなさん、これからもよろしく。

この一年で

沖縄編

***

 ライフレポートをずいぶん長い間ほったらかしにしていました、ごめんなさい。よく見ると前回の更新が2004年5月だからほぼ1年くらい放置してた、びっくりだ。その間にあったことをざっと思い出してみると。

 ・子供ができました
 ・店をはじめました

大きなことはこの二つ。簡単に書いてますがどちらも本当に大きな出来事です。

***

子供ができました

沖縄に引っ越してきてすぐに子供ができました。これは大きかった。というかこれがなかったら正直今の僕の店があるとは思えない。子供ができて、うれしくなって、しっかりと人生を考えることが辛いことではなくなった。結果として今のお店ができた。

沖縄に引っ越してきてはじめの数ヶ月は妻と僕とでほとんど何もせずに過ごした。前の仕事をお互いに辞めてから僕達にはそういう期間が必要だと思ったのだ。二人の人生をリセットするための静かな期間。この期間にしっかりと切り替えることが出来たと思う。僕達は文字通りまっさらになることができた。

ところが人間って環境に慣れるとダレる。最初は目的意識を持っていても、沖縄に慣れるにつれ次第にどうでもよくなってくる。悪い意味ではなく沖縄とはそういう場所なのだ。大きな夕日が真っ青な海に沈んでいく様子なんかを毎日眺めていると、もうどうでもよくなってくる。くよくよ考えるのに開放的な場所は向いていないのだ。

もしこのタイミングで子供ができていなかったら、と考えると少し恐ろしくなる。今でもあのままリセット期間が続いていたかもしれない。目的をなくし、ただただぼうっと夕日を眺めて暮らしていたかもしれない。まあそれはそれで悪くない人生なのだけど、僕たちは目的をなくすために元の生活を辞めたわけではないのだ。

お店、始めました

沖縄に引っ越してきた目的の一つが「自分でお店を開くこと」だった。これを実現するために手探りの状態から一つずつ積み上げて、2005年1月 monkey on the moonという店が出来上がった。こうやって書くと一応の目的は達成したかのように見えてしまうが、実際に開店してみるとそれが単なる始まりにすぎないということを痛感することになる。それはもう本当に身にしみて、つくづくそう思う。これからなのだ。

お店のことについては次の回から詳しく書いていこうと思います。ちゃんと更新します。するつもりですので期待しないで待っていてください。

お店はじめました

今考えるとお店作りは怖いくらいに順調に進んだと思う。小さなトラブルや面倒くさそうに立ちはだかる障害もいくつかはあった。だけどたくさんの人たちに助けられてなんとか乗り越えてこられた。そのことをいつか忘れてしまわないうちにお礼を言っておかなくてはならない。勝手に走り出した僕を支えてくれた皆さん、本当にありがとう。心から、感謝しています。

2004年11月

ようやくハコとなる物件が決まる。物件を決め工事を始めてからはほとんど何も考える余裕がなかった。とにかく早く形にしなくては、と焦っていた。

壁を塗って床を張って、カメラの整備とコーヒーメニューの練習、電気ガス水道、営業許可の申請。やることがありすぎて次の日のことを考えることすら怖かった。その日一日一日のためにひたすら体を動かしていた。この時期の僕を思い出して妻は言う「危ない顔してたよ」と。

だけど工事がだいたい終わり、完成寸前のお店に立ったとき、限りなく僕は怖くなった。逃げてしまいたくなった。出来上がりつつあるお店は何もかもが中途半端に見えたのだ。1月6日に予定していた開店に営業許可の交付が間に合わず、商品であるカメラの仕入れも滞っていた。提供するコーヒーの味はこれでいいのか、紅茶はどうだ、スコーンとパンの焼き具合は。お客さんに堂々と自信をもって薦められるものなんて一つもなかった。

それでも工事は終了し、前の職場の仲間や沖縄の友達から花が届き、お店はひとりでに始まっていった。

2005年2月

営業許可が下り、正式にmonkey on the moonが始まる。店にはお客が溢れ、道には駐車待ちの車が列をなし店内では人手が足らずに大あらわ、なわけがない。最初の一ヶ月くらいは珍しさで入ってくれるお客さんや、おいおい本当にはじめたのかよ、と不安げに様子を伺いにくる友達でお店は順調に回っているように見えた。だけど台風が通り過ぎれば次には凪がやってくる。そんな感じで3月に入るとぱったりと人が来なくなった。

おいおい、大丈夫かよ。

monkey on the moon

monkey on the moon

という名前のお店を始めました。お店のコンセプトは「らしくない店」です。カメラを販売しているけどカメラ屋らしくない、コーヒーを出すけどカフェらしくない、こいついったい何がしたいんだ、という掴み所のない感じのお店。あ、ここお店だったんだ、と帰るときに気付くくらいお店らしくないお店。

monkey on the moonで扱っているカメラの価格は、オークションとか個人売買を除いてたぶん日本で一番安いと思う。コーヒーだって安くてうまい。宣伝ではなく事実そうなのだ。いまどき250円でコーヒーが飲めるカフェがあるだろうか。まあたぶんあるだろうけどあんまりないよね。

どうしてこういうことになっているかというと、そこには僕の短所が大きく影響している。気が小さい、という決定的な短所。この性格のおかげで僕はこれまでいろいろと神経をすり減らしてきた。どうしてもいつも人の顔色を伺ってしまうのだ。

それからこれは本当の話なのだけど、僕はたいてい誰かと一言二言話をすると、その人の持つ空気のようなものをつかむ事が出来る(と思っている)。そしてその空気を取り込んで、最初の30分は相手の中にもぐりこんでその人から気持ちよく話を聞きだすことが出来る。ただし30分が限度だ、疲れるから。

少し話がそれてしまったけど、この気が小さいという性格は商売をする上で致命的な欠点だと思う。儲かる商売をしている人っていうのは、要するに人を自分のペースに巻き込む支配力というかカリスマ性みたいなものを持っているのではないか。おれが1000円というのだから1000円なのだ、なんかもんくあるか、というような。僕にはそれがない。魂込めて作ったコーヒーに250円もらうのでさえ気が引ける。本当はタダで出したい。

で、どうなるかというと

お店に人が来る。びくびくしながらコーヒーを出す。その人と少し話をしてペースをつかむ。あはは、面白いよね、と和む。また来るよ、って言いながらその人気持ちよく帰っていく。

そうやってお金を払わず帰っていったお客が何人いたことか。こうなってくるともはや「お店らしくない」どころかお店ではない。

こういうよくわからないことやっていたせいか、3月はお客がいっこうに入らなかった。かろうじてカメラ部門がそこそこ売れていたので大きな赤字は出さなかったが、これはちょっと考える必要があるのかもしれない。だけどこの人間くさい営業方針はいけるところまでそのままでいきたいとも思っている。面白いから。

これからも温かい応援よろしくおねがいします。

春音、写真、名古屋取材

2005年3月16日

我が家に新しい命がやってきました。安藤春音(ハルト)、頭のでっかいところが僕に似たかわいい赤ちゃんです。よく「我が子はかわいい」とかいうやついるけど、あれ本当だぜ。この子が高校生くらいになって「おやじうぜえよ」とか言いだすなんて想像しただけでハンカチ必要なくらい泣けるもんね。これを機に今まで自分が自分の親に対してしてきた態度に反省したりもしています。

monkey on the moon

は緩やかに、本当に目に見えないくらいに緩やかに、軌道に乗りつつあります。開店して3ヶ月経ってやっと、ぼちぼちでんなあ、と言えるくらいになってきた。相変わらずはじめてきたお客さんには「ここ、何の店ですか」とか「展示してあるカメラって売り物ですか」とか言われるけど気にしない。気が小さいから本当は少し気にしてるんだけど。

4月は

タテザワマリエさんという沖縄で写真を撮っている方の写真展を開催しました。もともとうちの店はギャラリーではないのだけど、写真に関すること、カメラに関することならば積極的に実行していきたい、という店長の暑い意思の下、初の写真展が開催されたのです。ええ、おかげさまで大成功でした。

今後も不定期にですが、写真の展示会みたいなことはやっていきたいと思っています。写真ってどうしても撮るだけとってそのままどこかへしまいこんじゃってる人が多いと思う。だけどそういう中にこそ静かに傑作が眠っていたりするものなのです。そして自分が撮った写真を引き伸ばして作品という形にすることで、改めて気付くことも必ずあると思う。何か一つ写真に対する取り組み方が変わってくるかもしれません。これ全部自分に対して言っていることなので気にしないで下さい。monkey on the moonで写真を展示したい方、どしどしご応募下さい。来るものを拒むほどたぶん応募は来ないと思うのでご安心を。

それから4月はニフティ関係の仕事で名古屋へ行っていました。

ニフティでライターの仕事を始めてからもうすぐ1年が経つ。僕なんていわば切れ端みたいなライターなわけだけど、この仕事を通してお金をもらって文章を書くという貴重な経験をさせてもらっている。そしてそれに伴い、書いた文章の背負う責任というものもひしひしと感じているわけです。

仕事の種類によるのかもしれないけど、ライターとして必要な能力の一つは、物事をまっすぐに見て先入観なく受け入れられることだと思う。名古屋で僕よりはるかに実力のあるライターさん達と一緒に仕事をさせてもらって、かなりの刺激を受けました(ほったらかしにしていたLifeReportが復活したのもこの影響がないわけではない)。

5月もまた面白い月にしていきたいです。ではでは。

ちょっとしたこと

たぶん去年書いたと思われる文章が出てきました。捨てようかと思ったけど、ちょっと面白かったのでアップしておきます。

***

ちょうど今から1年くらい前のはなし

どうして今さらそんな昔の話を、と思うかもしれないけど、今書きたくなったのだからしようがない。僕の中でようやく消化できたと判断したのだろうか。風化することもなくずっと僕の頭の中に横たわっていた丸太のような記憶だった。どこに行くにもそこを通らなくてはいけない、だけど通るたびに足を引っ掛ける、そんな、丸太。

沖縄に引っ越してきてしばらくしてからのこと

友達の誘いでなんとなく船の旅に参加することになった。船の旅といってもけっして優雅なものではなく、帆船に乗って沖縄から横浜まで行こうというかなりハードなやつ。僕は大学の部活でヨットに乗っていたのだけど、そこでの体験があまりに濃すぎたために帆船という響きにすこし敬遠していた。だけど仕事もしていなかった僕に誘いを断る理由も特に見当たらなかった。

船は海星という名の帆船で、これまで何度も外洋航海を成功させていた。参加したクルーは20人くらいで国籍も年齢も様々。ほとんどのクルーに共通して言えるのは、海を知らない、ということ。船長と数人のスタッフを除いては誰もが初めての航海だった。そんなクルーが3チームに分かれて24時間船を操縦する。

細かいことを書きすぎるときりがないので今回は僕が今になって書きたくなった部分のみにとどめたい。

その航海中、船に台風が直撃した。すこしおかしな表現だけど、それが実際に一番近いと思う。はるか南の海上で発生した台風が徐々に成長しながら海星の進路をなぞるように僕達を追いかけてきたのだ。

2人いた船長の意見が分かれたのは、このままでは確実に直撃される、とわかった日の夜だった。一人は安全を優先し近くの港への寄港を提案した。もう一人はエンジンを使い速度を上げて横浜へ向かうことを提案した。海を知らないクルー達は不安よりも未知への興味を優先していた。ほぼ全員が横浜行きを希望した。船は大勢を尊重し、そのまま横浜へ向かった。

しかし案の定、船は和歌山沖で台風に追いつかれた

船は木の葉のようだった。波は視界をふさぐ高さの水の壁に成長していた。クルーはデッキの柱にロープで自分の体を縛り付けた。周りに船はない、もちろん陸もない、星もないので少しの光も見えない。船内は洗濯機の中みたいな状況になっていた。とても休んでいられない。クルーの一人がノイローゼになって叫んでいた。

もしかしたら

そう思った。人は意外とあっけないきっかけで死んでしまうものなのかもしれない。どこまでが日常で、どこからが死の世界なのか、その境界というのはこうも曖昧なものなのか。車を運転しているうちに知らずに県境を越えてしまうみたいなものなのかもしれない。日常の中に死の領域は確実に存在するのだ。それを踏まずに生き続けることの方が奇跡のようなものなのかもしれない。

***

台風は船を追い抜いて、僕たちは横浜に着いた。

この体験をきっかけに、何かが僕の中で大きく変わった。もしかしたら明日、僕は死への境界線を意図せずまたいでしまい、あっけなく死ぬかもしれない。そのときにおそらくたくさんあるだろう「やり残したこと」を一つでも減らしておきたいと思った。生きてるうちに、精一杯生きておこうと。

相変わらず夜な夜なビール飲んだり無理やり早起きしてサーフィンしたりししてますが、これも精一杯やってることの一つというわけなのです。

ぼろぼろになった靴

2年ぶりに新しい靴を買った。これまで履いていたオールスターがぼろぼろになったのだ。沖縄に来て1年目に買った靴だった。あれから2年、たくさん歩いたな。ぼろぼろになった靴が僕たちの2年間を思い出させてくれた。

***

沖縄に来てから3度目の夏を迎えました。みなさんはいかがお過ごしでしょうか。

僕は最近ちょっと夏バテ気味です。思い返せば沖縄に来てからというもの、毎年夏の暑さにやられ続けている気がします。外に出た瞬間、日差しがすごい力で体を押し戻すのです。沖縄に住む人たちは夏の間中その見えない力と戦っているわけですよ。そのせいか、とにかくすごく疲れてしまって、夜お店を閉めるともうふらふらで歩けない。家までたどり着くのがやっとで、半分寝ながらご飯を食べて、あとは気を失ったように寝る毎日です。

***

お店をはじめて2年がたって、ようやくなんとかやっていけるようになってきました。たぶん来てくれる人が増えた分、閉店後の疲れも増しているんだろうな。ありがたいことなんですね。だけど最近いろいろと考えています、あと何年これでやっていけるんだろう、なんて。今日買った新しい靴がまたぼろぼろになるまで歩いて、たぶんあと2年か3年か後ですよね、そのときもう一度周りを見回して、見える景色が今と同じだったとしたら。

***

「変わらない」ということはとてもすごいことだと思う。キヨシローさんとか、僕が小学校の頃からぜんぜん変わってないもんな。自分のスタイルを信じて疑わないんだろう、それだけの自信があるんだ。僕は正直、少し怖いです。2年後、3年後に今と同じでいられるのか、逆に今とまったく同じだったとしたらそれはそれでいいのか、まったく自信がないです。

***

今年の4月に妻と話をした。これから先どうしようか、という話。手探りで引っ越してきた沖縄にもいつのまにかすっかり慣れた頃、僕たちはこの2年で初めて具体的な話をした。前の仕事を辞めて沖縄に引っ越すときにはこんなに真剣にこれからのことを話した記憶がない。あのときは「やっていけるんじゃないか」って漠然と自信をもっていた。たぶん他にすることが多すぎたのだろう。それで考えるのを後回しにしていたのだと思う。まあ実際のところこれまでどうにかやってきているので、あのときはあれでよかったのだろうけど。

では今は、どうだ。

***

心配事は二つ。子供を沖縄で育てていくということ。それから年を取っていく自分たちの両親のこと。

僕に関して言えば、子供ができて、ようやく自分と両親との関係が繋がったように思えた。これは完全に僕の気持ちの中の問題なのだけど、これまで僕の気持ちは自分の両親にはほとんど向いていなかった。自分に子供ができて、自分が親になってはじめて、親の子供に対する気持ちの強さというものを知った。僕に向けられていた両親の思いを、想像した。

沖縄に来たとき、家族は僕と妻だけだった。二人ならば生きていけるような気がしていた。だけども今は子供と、離れてはいるがお互いの両親も一緒だ。僕たちはみんなで生きていくことを考えなくてはいけない。しかも楽しく生きていくことを。

***

新しい靴が白すぎて恥ずかしいです。

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