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2011年03月 アーカイブ

2011年03月15日

2008年春


沖縄から横浜に引っ越しました。

沖縄のお店を人にゆずり、横浜へ引っ越してきたのは東京での仕事が決まったから。これまで書かせてもらっていたライターの仕事をそのまま東京でさせてもらえることになったのだ。

沖縄を積極的に離れたかったわけではない。なにしろたくさんの友達がいる場所だし、暖かい気候にもすっかり慣れてしまった。冬服をほとんど処分してしまったのは、もうずっと沖縄で暮らすつもりだったからだ。それなのに僕たちは、4年前に沖縄へ引っ越したときと同じくらいの勢いで、再び関東への引越しを決めてしまった。

なぜか。

一番大きかったのはやっぱり子供たちのことかもしれない。この春、うちにはもう一人、子供がやってくるのだ。

子供たちが育つ環境として沖縄は掛け値なしに最高な場所だと思う。子育てを楽しみつつ、それを自分の人生の大切な一幕として考えている親たちが沖縄には実に多い(もちろんそうでない親もたくさんいるのだけれど)。そんな親のもとで育った子供たちは、まず例外なくまっすぐに育つ。僕たちは沖縄で、そんな親と子との、そして地域とそこに暮らす人との、あきれるくらいに濃い「つながり」を目の当たりにした。これは僕たちにとって、今後子供を育てていく上での、ある種の覚悟みたいなものに反映されているのではないかと思う。

僕たちは二人の子供を沖縄で授かったわけだけれど、これがもし沖縄でなかったなら、もしかしたらあの時期に(僕はあのころ仕事をしていなかった)子供を授かったこと自体を最上の喜びとして受け取ることができなかったのかもしれない。沖縄には命を育むことの誇り、生きることへの貪欲な希求みたいなものを吸い込んだ土がある。ざわわざわわと風に揺れるサトウキビ畑は、僕の目には「生きろ」というメッセージに見えた。

だけど沖縄にも、足りないものはもちろんある。

仕事とお金、そして教育の場

沖縄で暮らしていく分には今のままの生活でもさほど不便はない。お店の売り上げとその他副業で得られた収入、それに千晶の収入が加われば、家族で暮らしていくには十分である。

お店は沖縄の生活リズムに合わせて、午後から夜中までの営業としていた。午前中は千晶を職場へ、春音を幼稚園に送り届けたあと掃除と洗濯をして、取材仕事があればそれをこなしてから買出しに行く。その後千晶の病院へ車を届けに行って自分は走って帰ってくる。そうしたらだいたいお店を開ける時間だ。

運動会の借り物競走みたいな毎日。はたしてこれが、いつまでもつものか。

心配事は体力、お金以外にもあった。

沖縄の「いい部分」、これは前述したとおり他に代え難いものだけれど、しかし他面、その価値に寄りかかって成長してしまうことは、子供にいいタイミングでの「自立」みたいなものを与えないのではないか。そんなことも考えていた。

沖縄に関わる人々はみな沖縄を愛している。多くのうちなんちゅ(沖縄で生まれ育った人)はできることならば島から出ずに暮らしていけたらそれでいいと思っているのではないだろうか。確かにその気持ちはわかる、だって快適なのだから、あえて島の外に出て行く理由がないのだ。できることなら僕だってそうしたい。そういうある種開き直ったようなところがあると思うのだ、沖縄には。

この環境で子供が育つとして、うちなんちゅとして育った彼らは、おそらく他の子供たちと同じようにこの島を好きになり、この島で一生暮らしたいと思うことだろう。それはすばらしいことだと思う。しかし島の外には、あたりまえだけれど別の世界も存在する。その世界は広く、そして厳しい。めまぐるしく変化するこの時代に生きる子供たちが、一つの小さな島にとどまっていられるなんて幸せな保障はどこにもない。

一度この環境を外から見て理解したうえであえて島に住むということと、それをしないまま成長するのとでは大違いだと思う。

子供たちはいつか自分たちの力で彼らの居場所を見つけるだろう。僕たちもまた、沖縄に戻る日がくるかもしれない。あのざわざわした島に、いつか。

2008年3月

さくらは新潟で産まれた。

ちょうど沖縄から横浜へ引越しをしている最中だった。僕たちは沖縄から一時的に新潟の千晶の実家へ住まわせてもらい、その日を待った。

暑い沖縄で授かった子供が雪の新潟で産まれてくるのだ。さくらはにとってはさぞや驚きだったことだろう。僕たちの不安とか期待とか、そんないろんな感情の入り混じった分娩室のベッドの上で、彼女は誕生した。

いちばん最初に彼女が聞いた声は、きっと号泣する春音の声だったんじゃないだろうか。春音ははじめてみる母親の「命を生み出す」姿に、胸をつまらせて泣いた。僕も泣いた。うれしかったり驚いたりほっとしたりで、あの時はみんな泣いていた。

出産はすごい。結婚によって生まれた家族が出産によってひとつの形に納まりを見せるのだ。肉親という言葉がすんなりと受け入れられるようになる。まさに肉を分かつ瞬間がそこにはある。

さくらの季節に生まれたからさくら。安直なといわれてしまえば確かにそうだけれど、そのくらいに大きな、そして直接的なインパクトだった。まさに春が来た、そのくらい単純な喜びである。

そして新しい暮らしが始まる

産まれたばかりのさくらと家族を新潟に置いて、僕は一足先に横浜に向かった。そういえば4月からは会社員なのだ。この前まで沖縄で3人家族だったのが新潟で4人に増え、そして僕は今ひとりぼっちで横浜にいる。めまぐるしすぎてなにがなんだかわからないですね。

新しいアパートの部屋は僕一人にはもちろん広すぎた。隣の部屋には上品な老夫婦が住んでいて、僕たちも将来こうなりたいなと思った。新しい暮らしは、僕たちを巻き込みながらいつのまにか動き出していた。

横浜のアパートでひとり、僕は新潟の雪を想像した。沖縄のごつごつした石灰岩を想像した。どっちも遠くにあるはずなのに、はっきりと思い出すことができがた。横浜は春だった。うぐいすが鳴いていた。春という季節は場所によって、人によってまったく違う季節になるのだなと思った。

今年の春もまた、特別な春になるのだろうか。

2009年夏

またも引っ越し。湘南茅ヶ崎市へ。

僕たちは茨城から沖縄、横浜と、すでにさんざん引っ越しを繰り返しながらも、そろそろどこか腰を落ち着ける場所を見つけたいと常々思っていた。もうすぐ春音が小学校へ行く年になるのだ。親の趣味で子供に転校させてばかりでは申し訳ないだろう。

住むのはマンションでもアパートでもなんでもいい、とは僕の意見だった。こだわりなんて特にない、ずっと賃貸でいい。猫は飼いたい(これまでのアパートではこっそり飼っていた)。反対に戸建てにこだわったのは千晶だった。子供たちが小さい頃から大人になるまで、同じ記憶の中で皆で共有できる家が欲しい、彼女はそういった。

しかし長く住むとなると、これまでのように無鉄砲に決めるわけにもいかないような気がする。安易に決められない引越しなんて息苦しくないだろうか。

沖縄から引っ越してきて最初に住んだ横浜のアパートがえらくすばらしいところだったこともあり、僕らの行動は一時滞った。夏にはカブトムシが飛んでくるような田舎だけれど、自転車で動物園にも行けたし電車に乗れば都内の職場まで45分だ。おなじアパートの住民はみんなやさしいし隣にでかい古本屋があって夜中まで開いていた。クライマー約束の地、鷹取山にだってジョギングで行くことが出来る。文句の付けようがないだろう。いまこのレポートを書いていてもどうして引っ越す気になったのかよくわからないくらいだ。

茅ヶ崎の家を見に行ったのは「気分転換」くらいの軽い理由だったように思う。先に書いたように僕たちは横浜をいたく気に入っていた。できれば同じ横浜市金沢区内で引っ越ししたいものだと、週末のたびにいくつも物件を見に行った。そのたびに今のアパートが一番いいや、って思って帰ってきた。

でもたとえばまったく他の土地はどうなんだろう。ちょっとくらい見てみても良いんじゃないか。そのくらいの気持ちで見に来た茅ヶ崎に、まんまとハマってしまった。

なにしろここには海がある。横浜にももちろん海はあるのだけれど、同じ名前で呼んでいることが不思議になるくらい、海という言葉の表すイメージが違う。横浜の海は港だ。茅ヶ崎の海は遊び場だ。茅ヶ崎には文化としての波乗りがある。海に出るとすぐそこに江ノ島と烏帽子岩、そして富士山が見える。日焼けした子供達がビーチサンダルで走り回り、大人たちは上半身裸でサーフボードを横に積んだ自転車に乗って海に向かう。時間の流れが全く違う。

横浜から鎌倉を通って134号線を海沿いに走ると、稲村ガ崎を越えたあたりで急にぱーっと雰囲気の変わる場所がある。僕はそこから先が湘南だと思っている(実はその先、小動(こゆるぎ)の峠を越えるともう一度感じが変わるのだけれどその違いは住んでからわかった)。

一度見に来ただけなのに、この風景がプリントされた写真のように、僕の頭の中に張り付いてしまった。せっかく面倒な引越しをするのならば、本当に住みたい場所を探したい。

結局僕たちは茅ヶ崎で最初の日に見た家に引っ越すことに決めた。単純。

2010年クリスマス

春音にとっては幼稚園最後のクリスマスということで、クリスマス会は僕もなんとかして見に行きたいと思っていた。でも無理でした、だって金曜日にやるんだもん。

春音は最後まで「パパが見に来ないのなら何もやらない」と意地を張った。千晶いわく先生に説得されても涙目で意地を張り通したのだとか。

クリスマス会の舞台で、春音は「博士」の役をもらっていて、そのために白い衣装も買ってきたのだ。なによりそれを僕たちに見せるのを本人がすごく楽しみにしていて、家では「博士」を絶対にやってくれなかった。本番で見せたいから、と。

そんなに楽しみにしていた「博士」を僕のせいで演じさせてあげられないのは本当に申し訳なかった。でも、正直そこまで春音が意地を張ってくれたのは、うれしかった。

結局当日の朝まで意地を張り通した春音は、僕が仕事に出かけるときに複雑そうな顔をして見送ってくれた。僕はいつもよりも強く春音を抱きしめてから家を出た。前日に春音と二人で「仕事」についていろいろと話をした。でも5歳の子供だ。僕だってそんな年の頃は、自分の父親がなんのためにどんな仕事をしているのかなんて理解不能だったろう。家族のためなんだよ、っていう言葉が、なんとなく言い訳っぽくて嫌だった。

その日は「博士」が始まる16時まで、会社にいてもほとんど上の空だった。正直仮病を使ってでも春音のところへ行って博士を演じさせてあげたかった。でもまんまと16時から他社で打ち合わせが入っていた。

公演時間が終わってすぐ千晶から電話があった。その前に僕の方から着信を入れていたんだけれど、たぶん僕も千晶も同じように博士のことがずっと気になっていたのだろう。千晶は何も言わずに春音に変わってくれた。

「パパ、今日は早く帰ってこれるの?今日は幼稚園でクッキーもらってきたから机の上においておくから帰ったら食べていいよ。」

クリスマス会に参加した子がもらえるクッキーだ。春音は博士を演じたのだ。

僕は外にいたんだけれど、人目も気にせずくしゃくしゃに泣いてしまった。あんなに泣けたのはさくらが産まれた時以来だと思う。

春音は僕の大切な息子だ。ずっと大切な息子だ。できることなら春音にもずっと僕のことを大切な父親だと思っていてもらいたい。僕は努力することが苦手なのだけれど、家族のためになら多少の努力はしてもいいな、と思っている。

メリークリスマス、博士!来年は小学校だね。

マラソンを走るということ

ジョギングを始めたのは沖縄にいた頃だったと思うから、2005年くらいの話だろうか。

沖縄には那覇マラソンというお祭りがあり、沖縄マラソンというレースがある。どちらも本当に魅力的な大会なのだけれど、これに出るためにはフルマラソンにエントリーしなくてはいけない。1キロも続けて走ったことのなかった僕にとって、42キロっていう距離はまったくとてつもなくばかげた長さに思えた。

それでも走り始めた年に那覇マラソン(お祭りの方)にエントリーしてからというもの、僕は毎年一度はフルマラソンを走ることにしている。これまでに那覇マラソンを2回、沖縄マラソンを2回、東京マラソンを1回走った。

マラソンの魅力はいくつもあると思うのだけれど、実際に走ってみて、僕なりに走る理由を書いておきたいと思う。

とてつもない達成感

42キロという距離、これはちょっとした長さだ。普通に練習していてもスタートから3時間以上走り続けるわけで、その間には実にいろいろなことを考える。特に30キロを超えたあたりからの思考の廃れ具合といったらすごい。まず全てのことが嫌になる。心のよりどころだった給水すら、これまでさんざん勇気付けてもらった沿道の声援すら、裏を返したように嫌になるのだ。この感情の切り替わりはすごい。体と心が直結していると感じる瞬間だ。

体の内部に肉体的な疲労が蓄積されていくのと同時に、気持ちは外側から廃れていく。40キロを過ぎたあたりではもう、頭のほんの芯の部分にだけ、干からびながら残った希望、やる気、義務感、そんなものをたよりにひたすら足を前に出すだけになる。感情は濁り骨がきしむ。全身が痛む。そんな地獄を見るのだ、そこから開放されたときの達成感は想像を超える。

体が変わっていくこと

継続的に運動をし始めた年齢でスタミナの衰えはストップする。これはジョガーの間でよく言われることだけれど、僕も走り始めた29歳とか30歳の頃に比べて、全体的な体力は伸びてきていると思う。そういう意味ではいい年に始めたのだと思う。

僕は冬の間は走るが、温かくなるとぱたりと走るのをやめてサーフィンを始める。マラソンとサーフィンはまさに対極の体の使い方をするので、僕はたいてい冬の間にやせた上半身を、満足にサーフ出来るよう仕上げるのに2ヶ月くらいかけてしまう。同じように秋には、夏の間に海で付いた筋肉を2ヶ月かけて削いでいくことになる。半年おきにまったく違った体を作るのだ。

我慢強くなる

長距離走は走るたびに得られる達成感もあるが、むしろ挫折の方が多いと思った方がいい。計画通りにタイムが伸びない、足を痛める、寝坊する、帰りが遅くて走る時間が取れない。毎日毎日が挫折と後悔の繰り返しなのだ。そんなどちらかというとネガティブな感情を継続的に心に与え続けると、人間の感情というのは鍛えられて安定していくものなのかもしれない。ちょっとやそっとのことではイライラしなくなる。あんなに辛い感情の起伏をねじ伏せて走ってきたのだ。気の短い人がジョギングに向かいないのではなく、ジョギングを続けることで気が長くなるのだと思う。心にも筋肉があり、鍛えれば強くなるということだと思う。

これからジョギングをはじめてみようと思った人は、まず6ヶ月くらいがまんして続けてみるといいと思う。挫折や後悔に打ち勝ってそこまでがんばれたなら、体と心は確実に変わってくる。そうしたらぜひフルマラソンにエントリーしてください。一緒に地獄を走り抜けましょう。

湘南国際マラソン2011

久しぶりにフルマラソンにエントリーしました。

2年前の東京マラソン以来である。あの時は練習不足で、なんとか完走はしたものの途中で歩いたりして確か4時間そこそこの良くも悪くもないタイムだったと思う。

今回はできる限りの準備をした。半年くらい前から走り始めて、直前の3ヶ月をしっかり走り込み、体重管理もした。半年で7キロくらい体重を落として必要な筋肉をつけた。

そのかいあってか今回は3時間19分でフィニッシュ。自己ベストを更新できました。応援してくれた皆さん、ありがとうございました。ハイライトは途中でおなかが痛くなって15キロすぎたあたりででトイレに離脱したことか。あそこで2分くらいロスしたけど、がまんしてたら後半もたなかっただろうからしかたないですね。みなさん、勇気を持ってトイレには行くべきです。

そのあと前半を1時間40分くらいで折り返す。悪くないペースだけれど、実は3時間切りも心のどこかで目指していたところがあって、正直これは足りないな、と思った。ハーフで15分の遅れはちょっと挽回するには大きすぎる。

補給は10キロ毎にチョコを1つずつ、あと20キロ過ぎから公式給水所で3回ほどスポーツドリンクを一口ずつ。40キロ過ぎたからギアを下げてスパートかけられたのがよかった。最後まで精神的に安定していたのも今回の調整がうまくいった証拠だと思う。いままで後半でいつも気持ちがめげて記録なんてどうでもよくなるんだけど、今回は最後まで自分の意識でペースをコントロールすることができたので。

コースもよかった。ほとんどフラットで風もなく(最後5キロくらい向かい風だったけどすでに気にならなかったし)気温も10℃まで上がらなかったんじゃないかな。それから自宅の近くを通るっていうのもうれしい。今回は初めて家族が沿道に来てくれました。これは力になる。せめてその前だけでもスピードアップしたくなるもの。

茅ヶ崎にはジョガーが本当に沢山いて、海沿いの道はいつ行っても誰かが走っている。

一年くらい前から、茅ヶ崎のジョガーの友達が増えた。僕にとってこれ大きかった。マラソンはもちろん一人で走るものだけれど、そのモチベーションを維持するには仲間がいたほうが絶対にいい。

仲間の状況はtwitterでリアルタイムに飛んでくる。冬の朝、暗いうちから走ってる人がいる。かっこいいじゃないか、僕も走らなきゃ、という気持ちになるもんです。

今回も一緒にたくさんの仲間とエントリーすることができて、それだけでも価値がありました。走らない仲間は沿道で旗を持って応援してくれ、先にゴールした仲間は汗が引いたあとも待っていてくれた。沖縄から引っ越してきて、なんだかようやく居場所ができたような気がした。記録ももちろんだけど、僕にはそれがなによりうれしかった。

次の大会は11月みたいですね。夏を挟むとどうしてもサーフィンしちゃって走るのなまけそうだけれど、出ないわけにはいかないんだろうな。仲間もみんな走るはずだ。楽しみは終わらない。

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