沖縄から横浜に引っ越しました。
沖縄のお店を人にゆずり、横浜へ引っ越してきたのは東京での仕事が決まったから。これまで書かせてもらっていたライターの仕事をそのまま東京でさせてもらえることになったのだ。
沖縄を積極的に離れたかったわけではない。なにしろたくさんの友達がいる場所だし、暖かい気候にもすっかり慣れてしまった。冬服をほとんど処分してしまったのは、もうずっと沖縄で暮らすつもりだったからだ。それなのに僕たちは、4年前に沖縄へ引っ越したときと同じくらいの勢いで、再び関東への引越しを決めてしまった。
なぜか。
一番大きかったのはやっぱり子供たちのことかもしれない。この春、うちにはもう一人、子供がやってくるのだ。
子供たちが育つ環境として沖縄は掛け値なしに最高な場所だと思う。子育てを楽しみつつ、それを自分の人生の大切な一幕として考えている親たちが沖縄には実に多い(もちろんそうでない親もたくさんいるのだけれど)。そんな親のもとで育った子供たちは、まず例外なくまっすぐに育つ。僕たちは沖縄で、そんな親と子との、そして地域とそこに暮らす人との、あきれるくらいに濃い「つながり」を目の当たりにした。これは僕たちにとって、今後子供を育てていく上での、ある種の覚悟みたいなものに反映されているのではないかと思う。
僕たちは二人の子供を沖縄で授かったわけだけれど、これがもし沖縄でなかったなら、もしかしたらあの時期に(僕はあのころ仕事をしていなかった)子供を授かったこと自体を最上の喜びとして受け取ることができなかったのかもしれない。沖縄には命を育むことの誇り、生きることへの貪欲な希求みたいなものを吸い込んだ土がある。ざわわざわわと風に揺れるサトウキビ畑は、僕の目には「生きろ」というメッセージに見えた。
だけど沖縄にも、足りないものはもちろんある。
仕事とお金、そして教育の場
沖縄で暮らしていく分には今のままの生活でもさほど不便はない。お店の売り上げとその他副業で得られた収入、それに千晶の収入が加われば、家族で暮らしていくには十分である。
お店は沖縄の生活リズムに合わせて、午後から夜中までの営業としていた。午前中は千晶を職場へ、春音を幼稚園に送り届けたあと掃除と洗濯をして、取材仕事があればそれをこなしてから買出しに行く。その後千晶の病院へ車を届けに行って自分は走って帰ってくる。そうしたらだいたいお店を開ける時間だ。
運動会の借り物競走みたいな毎日。はたしてこれが、いつまでもつものか。
心配事は体力、お金以外にもあった。
沖縄の「いい部分」、これは前述したとおり他に代え難いものだけれど、しかし他面、その価値に寄りかかって成長してしまうことは、子供にいいタイミングでの「自立」みたいなものを与えないのではないか。そんなことも考えていた。
沖縄に関わる人々はみな沖縄を愛している。多くのうちなんちゅ(沖縄で生まれ育った人)はできることならば島から出ずに暮らしていけたらそれでいいと思っているのではないだろうか。確かにその気持ちはわかる、だって快適なのだから、あえて島の外に出て行く理由がないのだ。できることなら僕だってそうしたい。そういうある種開き直ったようなところがあると思うのだ、沖縄には。
この環境で子供が育つとして、うちなんちゅとして育った彼らは、おそらく他の子供たちと同じようにこの島を好きになり、この島で一生暮らしたいと思うことだろう。それはすばらしいことだと思う。しかし島の外には、あたりまえだけれど別の世界も存在する。その世界は広く、そして厳しい。めまぐるしく変化するこの時代に生きる子供たちが、一つの小さな島にとどまっていられるなんて幸せな保障はどこにもない。
一度この環境を外から見て理解したうえであえて島に住むということと、それをしないまま成長するのとでは大違いだと思う。
子供たちはいつか自分たちの力で彼らの居場所を見つけるだろう。僕たちもまた、沖縄に戻る日がくるかもしれない。あのざわざわした島に、いつか。