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      <title>Life Report</title>
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         <title>湘南国際マラソン2011年11月</title>
         <description><![CDATA[2度目の湘南国際マラソンが終わりました。

結果は手元の時計で3時間19分。前回と1分も変らぬ結果でした。3時間以上走って誤差1分以内って機械なみの精度ですが、実際のレースはそれなりに人間っぽい展開だったので忘れないように書いておこうと思います。

＊＊＊

これまでの大会について

前回、2月の湘南国際マラソンでは、途中でお腹が痛くなり、15キロ地点あたりでトイレに入って数分のロスをした。それはまあいいとして、覚えているのはゴールした後も普通に歩いて更衣室へ行って普通に歩いて帰ることができたことだ。それってすべて出し切っていなかったんじゃないのか。半年間なんとなくそれがひっかかっていた。

始めて走ったマラソンはNAHAマラソンだったのだけれど（<a href="http://portal.nifty.com/koneta04/12/15/01/">これ</a>）、その時は絶対に歩かないという目標を立てていて、ふらふらになりながらも意地で全部走りきってゴールした。あの時は確か直後に熱を出して寝込んだ。その頃春音が千晶のお腹の中にいて、もうすぐ産まれそうで、なんとしてもメダルをあげたいとがんばったのだ。タイムは4時間ちょっとだったと思う。タイムはともかく全部出した大会だった。

その後せっかくだから（僕はこの「せっかくだから」で失敗することが多い）、と、ちゃんと練習をするようになって、大会へも何度か参加して走ってきたのだけれど、最初の大会ほどやりきったと思えるレースは2回目以降なかった（その2年後のNAHAマラソンの20キロ地点でリタイヤしたときにはほとんど失神していたので出し切ったと言えなくもないが（<a href="http://portal.nifty.com/2006/12/06/b/index.htm">これ</a>）、完走できなかったのでノーカウントである）。

そして今回。タイムはもちろん自己ベストを更新、それ以前にとにかく全部出し切ろうと思ってレースに臨んだ。

＊＊＊

ここから今回のレース評に移ります

スタートして20キロの折り返しを過ぎ、25キロあたりまではかなり順調に飛ばした。ハーフでたしか1時間26～27分くらいだったと思う。これは後半35キロあたりでスパートできれば目標の3時間を切れるかどうかというペースである。いけるかも、と思い後半に向けて走り方を変えた直後だった（最初から前半は負担の少ないピッチ走法を、後半は死にものぐるいのストライドを、と決めていた）。

30キロ前の給水所でスピードに乗ったまま水のカップをつかんで一口飲んだ。その瞬間、脇腹に激痛が走った。気温の高いレースだったので筋肉が攣ったのか、とも思ったんだけど、そうじゃなく内蔵が痛いのだ。来たな、と思った。

実は30キロ以降の脇腹痛はずっと不安材料だった。長距離に内蔵がついていかないのか、それを守る腹筋が弱いのか、毎度このあたりで脇腹が痛くなるのだ。しばらくだましだまし走って痛みが「抜ける」こともあればそのまま痛み続けて走れなくなってしまうこともある。今回はどうにも抜けなかった。

ヨタヨタと1キロくらい走っては立ち止まって体側を伸ばすストレッチをする。その都度般若の表情を浮かべる僕に救護班が駆け寄る。「だ、だいじょうぶです（見た目大丈夫じゃない）」。この繰り返しである。たぶん4回くらい立ち止まったと思う。これだけで合計5分のロス。前後のヨタヨタ走りの影響も考えると15分くらいは遅れたはずだ。結局その後なんとか脇腹痛は抜けるものの時すでに遅し。この時点で3時間の目標は消えた。甘くない。

＊＊＊

目標に届かないことはわかってもレースは続く。マラソン経験者が口をそろえて言う35キロから先の地獄も手付かずで残っている。あとは全力を出し切れるかどうか、である。痛みが抜けた30キロ過ぎから、頭の中でずっと「おい！全部出し切ってるか」と自分に話しかけながら走った。そのあたりってもうヒザは上がらないし着地の度に背骨も腰もトンカチで殴られたくらいの衝撃を感じているのだけれど、それでも意地でギアを落としてスパートをかけた。悔しかったんだと思う。残り12キロを1時間で走ればひとまず前回の記録と並ぶのだ。そこだけは死守しようと思った。

大股のストライド走法は足首に負担がかかるのだけれど、そんなの今さらかばっていられない。前のめりでほとんど下だけを見て「イチ、イチ、イチ…」と声に出しながら走った。蹴った地面の硬さがシューズを通して伝わってくる、あの感覚だけを今でもリアルに足の裏で覚えている。スパートをかけてしばらくすると前しか見えなくなって周りの音が消えた。頭の中が「イチ、イチ、イチ」だけになる。考えることをやめてとにかく自分の声に合わせて足を上げて前に降ろす。次の一歩を考えずにこの一歩に全力を尽くす。それを繰り返した。とにかく全部出してゴールするんだ、そう思っていた。

ゴールした後、そのままへたり込んだ僕に係の人が心配そうな顔で近づいてきて、やんわりと「そこ、人が通るのでどいてください」という意味の言葉をかけてくれたんだと思う。半分ホワイトアウトしたまま計測タグを外して駐車場に倒れて僕は数分間寝てしまった。気がついた時に時計が進んでいたので寝ていたのだろうと思う。もちろんそんなところで寝ているびしょびしょの人なんて他にいない。でも気持ちがよかった。久しぶりに「地獄」を見て、自分の力でそこからはい上がってきたっていう実感があった。これがマラソンである。走り始めた6年ほど前に戻ったような気がした。

以上、タイムは平凡、脇腹痛は練習不足。結果的にはなにもいいところのなかったレースの振り返りでした。

＊＊＊

それにしてもとにかく走った2ヶ月間だった。夜中に帰ってもご飯食べると寝てしまうのでその前に走った。飲み会も断ってサーフィンも行かずにとにかく走った。おかげで精神力だけは鍛えられたのかもしれない。

練習を続ければもしかしたらいつか3時間切れるかも、と長い長いトンネルの向こう側にかすかに光りが見えた気がしたレースでした。次は東京マラソンです。どうなることやら。]]></description>
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         <pubDate>Sat, 05 Nov 2011 23:56:13 +0900</pubDate>
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         <title>震災、原発事故</title>
         <description>僕は以前原発を作る方の会社に勤めていたので、それを知っている人からいろいろ聞かれることが多い。この前もどのくらいの数値なら大丈夫か聞かれた。でもこういうことを聞いてくる人っていうのは、さんざん自分で調べた結果、それでもわからないから聞いてくるわけで、すでに僕なんかより詳しいのだ。

＊＊＊

僕は当時高速炉の構造設計をしていた。原子炉容器というステンレス製の入れ物に高い熱が加わったとき、どのような挙動をするのか、ようするに壊れないように設計をするための研究である。おお、こうやって書くとまるで今起きている事象を研究していた詳しい人みたいだ。でもそうでもない。地震のあとに水素がたまって屋根がふっとぶなんて知らなかった。

正直僕は原子炉容器の現物を見たこがないし、原子力発電施設だって入社当時の研修の頃に見学した以来である。その後はずっとデスクで架空の素材をコンピューターで解析していた。今いろいろ言われている人たちだって、あの日まではこの程度だったんじゃないか。そう思うと気の毒にすら思えてくる。

＊＊＊

原発は正直いやだなあ、と思う。

これは原発を作る側の会社で働いていた頃から変わらない意見である。なくてやっていけるのならばそれに越したことはないだろう。だけどまったく原発がなければ今ほどの日本の発展もなかったのかもな、とも思う。原子力関連の分野において、日本は世界屈指の技術力を持っている。これはやっぱりすごいことだと思う。ある特殊な分野の技術が他の分野にも影響を与え、全体を高いレベルに引き上げる力になることもある。高速炉をめぐる複雑怪奇な設計を体験すると、あれができて他にできないものなんてないんじゃないかと思うのだ（そのくらい面倒で現実的でない設計ともいう）。

＊＊＊

事故は現実に起きた。

かつて多少なりとも関わってきた者として、言い訳もない。痛恨である。

だけどこの失敗をつるし上げて切り捨てるんじゃなく、これまでの日本を牽引してきた技術力とそれがもたらした経済成長のツケを、なんとかして払っていかなきゃいけないんじゃないかと思うのだ。嫌だけど、責任ってそういうものだとも思う。ほんと嫌だけど。

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         <pubDate>Sun, 29 May 2011 00:47:50 +0900</pubDate>
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         <title>湘南国際マラソン2011</title>
         <description>久しぶりにフルマラソンにエントリーしました。

2年前の東京マラソン以来である。あの時は練習不足で、なんとか完走はしたものの途中で歩いたりして確か4時間そこそこの良くも悪くもないタイムだったと思う。

今回はできる限りの準備をした。半年くらい前から走り始めて、直前の3ヶ月をしっかり走り込み、体重管理もした。半年で7キロくらい体重を落として必要な筋肉をつけた。

そのかいあってか今回は3時間19分でフィニッシュ。自己ベストを更新できました。応援してくれた皆さん、ありがとうございました。ハイライトは途中でおなかが痛くなって15キロすぎたあたりででトイレに離脱したことか。あそこで2分くらいロスしたけど、がまんしてたら後半もたなかっただろうからしかたないですね。みなさん、勇気を持ってトイレには行くべきです。

そのあと前半を1時間40分くらいで折り返す。悪くないペースだけれど、実は3時間切りも心のどこかで目指していたところがあって、正直これは足りないな、と思った。ハーフで15分の遅れはちょっと挽回するには大きすぎる。

補給は10キロ毎にチョコを1つずつ、あと20キロ過ぎから公式給水所で3回ほどスポーツドリンクを一口ずつ。40キロ過ぎたからギアを下げてスパートかけられたのがよかった。最後まで精神的に安定していたのも今回の調整がうまくいった証拠だと思う。いままで後半でいつも気持ちがめげて記録なんてどうでもよくなるんだけど、今回は最後まで自分の意識でペースをコントロールすることができたので。

コースもよかった。ほとんどフラットで風もなく（最後5キロくらい向かい風だったけどすでに気にならなかったし）気温も10℃まで上がらなかったんじゃないかな。それから自宅の近くを通るっていうのもうれしい。今回は初めて家族が沿道に来てくれました。これは力になる。せめてその前だけでもスピードアップしたくなるもの。

茅ヶ崎にはジョガーが本当に沢山いて、海沿いの道はいつ行っても誰かが走っている。

一年くらい前から、茅ヶ崎のジョガーの友達が増えた。僕にとってこれ大きかった。マラソンはもちろん一人で走るものだけれど、そのモチベーションを維持するには仲間がいたほうが絶対にいい。

仲間の状況はtwitterでリアルタイムに飛んでくる。冬の朝、暗いうちから走ってる人がいる。かっこいいじゃないか、僕も走らなきゃ、という気持ちになるもんです。

今回も一緒にたくさんの仲間とエントリーすることができて、それだけでも価値がありました。走らない仲間は沿道で旗を持って応援してくれ、先にゴールした仲間は汗が引いたあとも待っていてくれた。沖縄から引っ越してきて、なんだかようやく居場所ができたような気がした。記録ももちろんだけど、僕にはそれがなによりうれしかった。

次の大会は11月みたいですね。夏を挟むとどうしてもサーフィンしちゃって走るのなまけそうだけれど、出ないわけにはいかないんだろうな。仲間もみんな走るはずだ。楽しみは終わらない。
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         <pubDate>Tue, 15 Mar 2011 00:39:02 +0900</pubDate>
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         <title>マラソンを走るということ</title>
         <description>ジョギングを始めたのは沖縄にいた頃だったと思うから、2005年くらいの話だろうか。

沖縄には那覇マラソンというお祭りがあり、沖縄マラソンというレースがある。どちらも本当に魅力的な大会なのだけれど、これに出るためにはフルマラソンにエントリーしなくてはいけない。1キロも続けて走ったことのなかった僕にとって、42キロっていう距離はまったくとてつもなくばかげた長さに思えた。

それでも走り始めた年に那覇マラソン（お祭りの方）にエントリーしてからというもの、僕は毎年一度はフルマラソンを走ることにしている。これまでに那覇マラソンを2回、沖縄マラソンを2回、東京マラソンを1回走った。

マラソンの魅力はいくつもあると思うのだけれど、実際に走ってみて、僕なりに走る理由を書いておきたいと思う。

とてつもない達成感

42キロという距離、これはちょっとした長さだ。普通に練習していてもスタートから3時間以上走り続けるわけで、その間には実にいろいろなことを考える。特に30キロを超えたあたりからの思考の廃れ具合といったらすごい。まず全てのことが嫌になる。心のよりどころだった給水すら、これまでさんざん勇気付けてもらった沿道の声援すら、裏を返したように嫌になるのだ。この感情の切り替わりはすごい。体と心が直結していると感じる瞬間だ。

体の内部に肉体的な疲労が蓄積されていくのと同時に、気持ちは外側から廃れていく。40キロを過ぎたあたりではもう、頭のほんの芯の部分にだけ、干からびながら残った希望、やる気、義務感、そんなものをたよりにひたすら足を前に出すだけになる。感情は濁り骨がきしむ。全身が痛む。そんな地獄を見るのだ、そこから開放されたときの達成感は想像を超える。

体が変わっていくこと

継続的に運動をし始めた年齢でスタミナの衰えはストップする。これはジョガーの間でよく言われることだけれど、僕も走り始めた29歳とか30歳の頃に比べて、全体的な体力は伸びてきていると思う。そういう意味ではいい年に始めたのだと思う。

僕は冬の間は走るが、温かくなるとぱたりと走るのをやめてサーフィンを始める。マラソンとサーフィンはまさに対極の体の使い方をするので、僕はたいてい冬の間にやせた上半身を、満足にサーフ出来るよう仕上げるのに２ヶ月くらいかけてしまう。同じように秋には、夏の間に海で付いた筋肉を2ヶ月かけて削いでいくことになる。半年おきにまったく違った体を作るのだ。

我慢強くなる

長距離走は走るたびに得られる達成感もあるが、むしろ挫折の方が多いと思った方がいい。計画通りにタイムが伸びない、足を痛める、寝坊する、帰りが遅くて走る時間が取れない。毎日毎日が挫折と後悔の繰り返しなのだ。そんなどちらかというとネガティブな感情を継続的に心に与え続けると、人間の感情というのは鍛えられて安定していくものなのかもしれない。ちょっとやそっとのことではイライラしなくなる。あんなに辛い感情の起伏をねじ伏せて走ってきたのだ。気の短い人がジョギングに向かいないのではなく、ジョギングを続けることで気が長くなるのだと思う。心にも筋肉があり、鍛えれば強くなるということだと思う。

これからジョギングをはじめてみようと思った人は、まず6ヶ月くらいがまんして続けてみるといいと思う。挫折や後悔に打ち勝ってそこまでがんばれたなら、体と心は確実に変わってくる。そうしたらぜひフルマラソンにエントリーしてください。一緒に地獄を走り抜けましょう。
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         <pubDate>Tue, 15 Mar 2011 00:38:27 +0900</pubDate>
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         <title>2010年クリスマス</title>
         <description>春音にとっては幼稚園最後のクリスマスということで、クリスマス会は僕もなんとかして見に行きたいと思っていた。でも無理でした、だって金曜日にやるんだもん。

春音は最後まで「パパが見に来ないのなら何もやらない」と意地を張った。千晶いわく先生に説得されても涙目で意地を張り通したのだとか。

クリスマス会の舞台で、春音は「博士」の役をもらっていて、そのために白い衣装も買ってきたのだ。なによりそれを僕たちに見せるのを本人がすごく楽しみにしていて、家では「博士」を絶対にやってくれなかった。本番で見せたいから、と。

そんなに楽しみにしていた「博士」を僕のせいで演じさせてあげられないのは本当に申し訳なかった。でも、正直そこまで春音が意地を張ってくれたのは、うれしかった。

結局当日の朝まで意地を張り通した春音は、僕が仕事に出かけるときに複雑そうな顔をして見送ってくれた。僕はいつもよりも強く春音を抱きしめてから家を出た。前日に春音と二人で「仕事」についていろいろと話をした。でも5歳の子供だ。僕だってそんな年の頃は、自分の父親がなんのためにどんな仕事をしているのかなんて理解不能だったろう。家族のためなんだよ、っていう言葉が、なんとなく言い訳っぽくて嫌だった。

その日は「博士」が始まる16時まで、会社にいてもほとんど上の空だった。正直仮病を使ってでも春音のところへ行って博士を演じさせてあげたかった。でもまんまと16時から他社で打ち合わせが入っていた。

公演時間が終わってすぐ千晶から電話があった。その前に僕の方から着信を入れていたんだけれど、たぶん僕も千晶も同じように博士のことがずっと気になっていたのだろう。千晶は何も言わずに春音に変わってくれた。

「パパ、今日は早く帰ってこれるの？今日は幼稚園でクッキーもらってきたから机の上においておくから帰ったら食べていいよ。」

クリスマス会に参加した子がもらえるクッキーだ。春音は博士を演じたのだ。

僕は外にいたんだけれど、人目も気にせずくしゃくしゃに泣いてしまった。あんなに泣けたのはさくらが産まれた時以来だと思う。

春音は僕の大切な息子だ。ずっと大切な息子だ。できることなら春音にもずっと僕のことを大切な父親だと思っていてもらいたい。僕は努力することが苦手なのだけれど、家族のためになら多少の努力はしてもいいな、と思っている。

メリークリスマス、博士！来年は小学校だね。
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         <pubDate>Tue, 15 Mar 2011 00:37:51 +0900</pubDate>
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         <title>2009年夏</title>
         <description>またも引っ越し。湘南茅ヶ崎市へ。

僕たちは茨城から沖縄、横浜と、すでにさんざん引っ越しを繰り返しながらも、そろそろどこか腰を落ち着ける場所を見つけたいと常々思っていた。もうすぐ春音が小学校へ行く年になるのだ。親の趣味で子供に転校させてばかりでは申し訳ないだろう。

住むのはマンションでもアパートでもなんでもいい、とは僕の意見だった。こだわりなんて特にない、ずっと賃貸でいい。猫は飼いたい（これまでのアパートではこっそり飼っていた）。反対に戸建てにこだわったのは千晶だった。子供たちが小さい頃から大人になるまで、同じ記憶の中で皆で共有できる家が欲しい、彼女はそういった。

しかし長く住むとなると、これまでのように無鉄砲に決めるわけにもいかないような気がする。安易に決められない引越しなんて息苦しくないだろうか。

沖縄から引っ越してきて最初に住んだ横浜のアパートがえらくすばらしいところだったこともあり、僕らの行動は一時滞った。夏にはカブトムシが飛んでくるような田舎だけれど、自転車で動物園にも行けたし電車に乗れば都内の職場まで45分だ。おなじアパートの住民はみんなやさしいし隣にでかい古本屋があって夜中まで開いていた。クライマー約束の地、鷹取山にだってジョギングで行くことが出来る。文句の付けようがないだろう。いまこのレポートを書いていてもどうして引っ越す気になったのかよくわからないくらいだ。

茅ヶ崎の家を見に行ったのは「気分転換」くらいの軽い理由だったように思う。先に書いたように僕たちは横浜をいたく気に入っていた。できれば同じ横浜市金沢区内で引っ越ししたいものだと、週末のたびにいくつも物件を見に行った。そのたびに今のアパートが一番いいや、って思って帰ってきた。

でもたとえばまったく他の土地はどうなんだろう。ちょっとくらい見てみても良いんじゃないか。そのくらいの気持ちで見に来た茅ヶ崎に、まんまとハマってしまった。

なにしろここには海がある。横浜にももちろん海はあるのだけれど、同じ名前で呼んでいることが不思議になるくらい、海という言葉の表すイメージが違う。横浜の海は港だ。茅ヶ崎の海は遊び場だ。茅ヶ崎には文化としての波乗りがある。海に出るとすぐそこに江ノ島と烏帽子岩、そして富士山が見える。日焼けした子供達がビーチサンダルで走り回り、大人たちは上半身裸でサーフボードを横に積んだ自転車に乗って海に向かう。時間の流れが全く違う。

横浜から鎌倉を通って134号線を海沿いに走ると、稲村ガ崎を越えたあたりで急にぱーっと雰囲気の変わる場所がある。僕はそこから先が湘南だと思っている（実はその先、小動（こゆるぎ）の峠を越えるともう一度感じが変わるのだけれどその違いは住んでからわかった）。

一度見に来ただけなのに、この風景がプリントされた写真のように、僕の頭の中に張り付いてしまった。せっかく面倒な引越しをするのならば、本当に住みたい場所を探したい。

結局僕たちは茅ヶ崎で最初の日に見た家に引っ越すことに決めた。単純。
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         <pubDate>Tue, 15 Mar 2011 00:34:44 +0900</pubDate>
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         <title>2008年3月</title>
         <description>さくらは新潟で産まれた。

ちょうど沖縄から横浜へ引越しをしている最中だった。僕たちは沖縄から一時的に新潟の千晶の実家へ住まわせてもらい、その日を待った。

暑い沖縄で授かった子供が雪の新潟で産まれてくるのだ。さくらはにとってはさぞや驚きだったことだろう。僕たちの不安とか期待とか、そんないろんな感情の入り混じった分娩室のベッドの上で、彼女は誕生した。

いちばん最初に彼女が聞いた声は、きっと号泣する春音の声だったんじゃないだろうか。春音ははじめてみる母親の「命を生み出す」姿に、胸をつまらせて泣いた。僕も泣いた。うれしかったり驚いたりほっとしたりで、あの時はみんな泣いていた。

出産はすごい。結婚によって生まれた家族が出産によってひとつの形に納まりを見せるのだ。肉親という言葉がすんなりと受け入れられるようになる。まさに肉を分かつ瞬間がそこにはある。

さくらの季節に生まれたからさくら。安直なといわれてしまえば確かにそうだけれど、そのくらいに大きな、そして直接的なインパクトだった。まさに春が来た、そのくらい単純な喜びである。

そして新しい暮らしが始まる

産まれたばかりのさくらと家族を新潟に置いて、僕は一足先に横浜に向かった。そういえば4月からは会社員なのだ。この前まで沖縄で3人家族だったのが新潟で4人に増え、そして僕は今ひとりぼっちで横浜にいる。めまぐるしすぎてなにがなんだかわからないですね。

新しいアパートの部屋は僕一人にはもちろん広すぎた。隣の部屋には上品な老夫婦が住んでいて、僕たちも将来こうなりたいなと思った。新しい暮らしは、僕たちを巻き込みながらいつのまにか動き出していた。

横浜のアパートでひとり、僕は新潟の雪を想像した。沖縄のごつごつした石灰岩を想像した。どっちも遠くにあるはずなのに、はっきりと思い出すことができがた。横浜は春だった。うぐいすが鳴いていた。春という季節は場所によって、人によってまったく違う季節になるのだなと思った。

今年の春もまた、特別な春になるのだろうか。
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         <pubDate>Tue, 15 Mar 2011 00:33:39 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>2008年春</title>
         <description>
沖縄から横浜に引っ越しました。

沖縄のお店を人にゆずり、横浜へ引っ越してきたのは東京での仕事が決まったから。これまで書かせてもらっていたライターの仕事をそのまま東京でさせてもらえることになったのだ。

沖縄を積極的に離れたかったわけではない。なにしろたくさんの友達がいる場所だし、暖かい気候にもすっかり慣れてしまった。冬服をほとんど処分してしまったのは、もうずっと沖縄で暮らすつもりだったからだ。それなのに僕たちは、4年前に沖縄へ引っ越したときと同じくらいの勢いで、再び関東への引越しを決めてしまった。

なぜか。

一番大きかったのはやっぱり子供たちのことかもしれない。この春、うちにはもう一人、子供がやってくるのだ。

子供たちが育つ環境として沖縄は掛け値なしに最高な場所だと思う。子育てを楽しみつつ、それを自分の人生の大切な一幕として考えている親たちが沖縄には実に多い（もちろんそうでない親もたくさんいるのだけれど）。そんな親のもとで育った子供たちは、まず例外なくまっすぐに育つ。僕たちは沖縄で、そんな親と子との、そして地域とそこに暮らす人との、あきれるくらいに濃い「つながり」を目の当たりにした。これは僕たちにとって、今後子供を育てていく上での、ある種の覚悟みたいなものに反映されているのではないかと思う。

僕たちは二人の子供を沖縄で授かったわけだけれど、これがもし沖縄でなかったなら、もしかしたらあの時期に（僕はあのころ仕事をしていなかった）子供を授かったこと自体を最上の喜びとして受け取ることができなかったのかもしれない。沖縄には命を育むことの誇り、生きることへの貪欲な希求みたいなものを吸い込んだ土がある。ざわわざわわと風に揺れるサトウキビ畑は、僕の目には「生きろ」というメッセージに見えた。

だけど沖縄にも、足りないものはもちろんある。

仕事とお金、そして教育の場

沖縄で暮らしていく分には今のままの生活でもさほど不便はない。お店の売り上げとその他副業で得られた収入、それに千晶の収入が加われば、家族で暮らしていくには十分である。

お店は沖縄の生活リズムに合わせて、午後から夜中までの営業としていた。午前中は千晶を職場へ、春音を幼稚園に送り届けたあと掃除と洗濯をして、取材仕事があればそれをこなしてから買出しに行く。その後千晶の病院へ車を届けに行って自分は走って帰ってくる。そうしたらだいたいお店を開ける時間だ。

運動会の借り物競走みたいな毎日。はたしてこれが、いつまでもつものか。

心配事は体力、お金以外にもあった。

沖縄の「いい部分」、これは前述したとおり他に代え難いものだけれど、しかし他面、その価値に寄りかかって成長してしまうことは、子供にいいタイミングでの「自立」みたいなものを与えないのではないか。そんなことも考えていた。

沖縄に関わる人々はみな沖縄を愛している。多くのうちなんちゅ（沖縄で生まれ育った人）はできることならば島から出ずに暮らしていけたらそれでいいと思っているのではないだろうか。確かにその気持ちはわかる、だって快適なのだから、あえて島の外に出て行く理由がないのだ。できることなら僕だってそうしたい。そういうある種開き直ったようなところがあると思うのだ、沖縄には。

この環境で子供が育つとして、うちなんちゅとして育った彼らは、おそらく他の子供たちと同じようにこの島を好きになり、この島で一生暮らしたいと思うことだろう。それはすばらしいことだと思う。しかし島の外には、あたりまえだけれど別の世界も存在する。その世界は広く、そして厳しい。めまぐるしく変化するこの時代に生きる子供たちが、一つの小さな島にとどまっていられるなんて幸せな保障はどこにもない。

一度この環境を外から見て理解したうえであえて島に住むということと、それをしないまま成長するのとでは大違いだと思う。

子供たちはいつか自分たちの力で彼らの居場所を見つけるだろう。僕たちもまた、沖縄に戻る日がくるかもしれない。あのざわざわした島に、いつか。
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         <pubDate>Tue, 15 Mar 2011 00:31:29 +0900</pubDate>
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         <title>ぼろぼろになった靴</title>
         <description>2年ぶりに新しい靴を買った。これまで履いていたオールスターがぼろぼろになったのだ。沖縄に来て1年目に買った靴だった。あれから2年、たくさん歩いたな。ぼろぼろになった靴が僕たちの2年間を思い出させてくれた。

＊＊＊

沖縄に来てから3度目の夏を迎えました。みなさんはいかがお過ごしでしょうか。

僕は最近ちょっと夏バテ気味です。思い返せば沖縄に来てからというもの、毎年夏の暑さにやられ続けている気がします。外に出た瞬間、日差しがすごい力で体を押し戻すのです。沖縄に住む人たちは夏の間中その見えない力と戦っているわけですよ。そのせいか、とにかくすごく疲れてしまって、夜お店を閉めるともうふらふらで歩けない。家までたどり着くのがやっとで、半分寝ながらご飯を食べて、あとは気を失ったように寝る毎日です。

＊＊＊

お店をはじめて2年がたって、ようやくなんとかやっていけるようになってきました。たぶん来てくれる人が増えた分、閉店後の疲れも増しているんだろうな。ありがたいことなんですね。だけど最近いろいろと考えています、あと何年これでやっていけるんだろう、なんて。今日買った新しい靴がまたぼろぼろになるまで歩いて、たぶんあと2年か3年か後ですよね、そのときもう一度周りを見回して、見える景色が今と同じだったとしたら。

＊＊＊

「変わらない」ということはとてもすごいことだと思う。キヨシローさんとか、僕が小学校の頃からぜんぜん変わってないもんな。自分のスタイルを信じて疑わないんだろう、それだけの自信があるんだ。僕は正直、少し怖いです。2年後、3年後に今と同じでいられるのか、逆に今とまったく同じだったとしたらそれはそれでいいのか、まったく自信がないです。

＊＊＊

今年の4月に妻と話をした。これから先どうしようか、という話。手探りで引っ越してきた沖縄にもいつのまにかすっかり慣れた頃、僕たちはこの2年で初めて具体的な話をした。前の仕事を辞めて沖縄に引っ越すときにはこんなに真剣にこれからのことを話した記憶がない。あのときは「やっていけるんじゃないか」って漠然と自信をもっていた。たぶん他にすることが多すぎたのだろう。それで考えるのを後回しにしていたのだと思う。まあ実際のところこれまでどうにかやってきているので、あのときはあれでよかったのだろうけど。

では今は、どうだ。

＊＊＊

心配事は二つ。子供を沖縄で育てていくということ。それから年を取っていく自分たちの両親のこと。

僕に関して言えば、子供ができて、ようやく自分と両親との関係が繋がったように思えた。これは完全に僕の気持ちの中の問題なのだけど、これまで僕の気持ちは自分の両親にはほとんど向いていなかった。自分に子供ができて、自分が親になってはじめて、親の子供に対する気持ちの強さというものを知った。僕に向けられていた両親の思いを、想像した。

沖縄に来たとき、家族は僕と妻だけだった。二人ならば生きていけるような気がしていた。だけども今は子供と、離れてはいるがお互いの両親も一緒だ。僕たちはみんなで生きていくことを考えなくてはいけない。しかも楽しく生きていくことを。

＊＊＊

新しい靴が白すぎて恥ずかしいです。
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         <pubDate>Sun, 05 Dec 2010 00:07:56 +0900</pubDate>
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         <title>ちょっとしたこと</title>
         <description>たぶん去年書いたと思われる文章が出てきました。捨てようかと思ったけど、ちょっと面白かったのでアップしておきます。

＊＊＊

ちょうど今から１年くらい前のはなし

どうして今さらそんな昔の話を、と思うかもしれないけど、今書きたくなったのだからしようがない。僕の中でようやく消化できたと判断したのだろうか。風化することもなくずっと僕の頭の中に横たわっていた丸太のような記憶だった。どこに行くにもそこを通らなくてはいけない、だけど通るたびに足を引っ掛ける、そんな、丸太。

沖縄に引っ越してきてしばらくしてからのこと

友達の誘いでなんとなく船の旅に参加することになった。船の旅といってもけっして優雅なものではなく、帆船に乗って沖縄から横浜まで行こうというかなりハードなやつ。僕は大学の部活でヨットに乗っていたのだけど、そこでの体験があまりに濃すぎたために帆船という響きにすこし敬遠していた。だけど仕事もしていなかった僕に誘いを断る理由も特に見当たらなかった。

船は海星という名の帆船で、これまで何度も外洋航海を成功させていた。参加したクルーは２０人くらいで国籍も年齢も様々。ほとんどのクルーに共通して言えるのは、海を知らない、ということ。船長と数人のスタッフを除いては誰もが初めての航海だった。そんなクルーが３チームに分かれて２４時間船を操縦する。

細かいことを書きすぎるときりがないので今回は僕が今になって書きたくなった部分のみにとどめたい。

その航海中、船に台風が直撃した。すこしおかしな表現だけど、それが実際に一番近いと思う。はるか南の海上で発生した台風が徐々に成長しながら海星の進路をなぞるように僕達を追いかけてきたのだ。

２人いた船長の意見が分かれたのは、このままでは確実に直撃される、とわかった日の夜だった。一人は安全を優先し近くの港への寄港を提案した。もう一人はエンジンを使い速度を上げて横浜へ向かうことを提案した。海を知らないクルー達は不安よりも未知への興味を優先していた。ほぼ全員が横浜行きを希望した。船は大勢を尊重し、そのまま横浜へ向かった。

しかし案の定、船は和歌山沖で台風に追いつかれた

船は木の葉のようだった。波は視界をふさぐ高さの水の壁に成長していた。クルーはデッキの柱にロープで自分の体を縛り付けた。周りに船はない、もちろん陸もない、星もないので少しの光も見えない。船内は洗濯機の中みたいな状況になっていた。とても休んでいられない。クルーの一人がノイローゼになって叫んでいた。

もしかしたら

そう思った。人は意外とあっけないきっかけで死んでしまうものなのかもしれない。どこまでが日常で、どこからが死の世界なのか、その境界というのはこうも曖昧なものなのか。車を運転しているうちに知らずに県境を越えてしまうみたいなものなのかもしれない。日常の中に死の領域は確実に存在するのだ。それを踏まずに生き続けることの方が奇跡のようなものなのかもしれない。

＊＊＊

台風は船を追い抜いて、僕たちは横浜に着いた。

この体験をきっかけに、何かが僕の中で大きく変わった。もしかしたら明日、僕は死への境界線を意図せずまたいでしまい、あっけなく死ぬかもしれない。そのときにおそらくたくさんあるだろう「やり残したこと」を一つでも減らしておきたいと思った。生きてるうちに、精一杯生きておこうと。

相変わらず夜な夜なビール飲んだり無理やり早起きしてサーフィンしたりししてますが、これも精一杯やってることの一つというわけなのです。
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         <pubDate>Sun, 05 Dec 2010 00:07:32 +0900</pubDate>
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         <title>春音、写真、名古屋取材</title>
         <description>２００５年３月１６日

我が家に新しい命がやってきました。安藤春音（ハルト）、頭のでっかいところが僕に似たかわいい赤ちゃんです。よく「我が子はかわいい」とかいうやついるけど、あれ本当だぜ。この子が高校生くらいになって「おやじうぜえよ」とか言いだすなんて想像しただけでハンカチ必要なくらい泣けるもんね。これを機に今まで自分が自分の親に対してしてきた態度に反省したりもしています。

monkey on the moon

は緩やかに、本当に目に見えないくらいに緩やかに、軌道に乗りつつあります。開店して３ヶ月経ってやっと、ぼちぼちでんなあ、と言えるくらいになってきた。相変わらずはじめてきたお客さんには「ここ、何の店ですか」とか「展示してあるカメラって売り物ですか」とか言われるけど気にしない。気が小さいから本当は少し気にしてるんだけど。

４月は

タテザワマリエさんという沖縄で写真を撮っている方の写真展を開催しました。もともとうちの店はギャラリーではないのだけど、写真に関すること、カメラに関することならば積極的に実行していきたい、という店長の暑い意思の下、初の写真展が開催されたのです。ええ、おかげさまで大成功でした。

今後も不定期にですが、写真の展示会みたいなことはやっていきたいと思っています。写真ってどうしても撮るだけとってそのままどこかへしまいこんじゃってる人が多いと思う。だけどそういう中にこそ静かに傑作が眠っていたりするものなのです。そして自分が撮った写真を引き伸ばして作品という形にすることで、改めて気付くことも必ずあると思う。何か一つ写真に対する取り組み方が変わってくるかもしれません。これ全部自分に対して言っていることなので気にしないで下さい。monkey on the moonで写真を展示したい方、どしどしご応募下さい。来るものを拒むほどたぶん応募は来ないと思うのでご安心を。

それから４月はニフティ関係の仕事で名古屋へ行っていました。

ニフティでライターの仕事を始めてからもうすぐ１年が経つ。僕なんていわば切れ端みたいなライターなわけだけど、この仕事を通してお金をもらって文章を書くという貴重な経験をさせてもらっている。そしてそれに伴い、書いた文章の背負う責任というものもひしひしと感じているわけです。

仕事の種類によるのかもしれないけど、ライターとして必要な能力の一つは、物事をまっすぐに見て先入観なく受け入れられることだと思う。名古屋で僕よりはるかに実力のあるライターさん達と一緒に仕事をさせてもらって、かなりの刺激を受けました（ほったらかしにしていたLifeReportが復活したのもこの影響がないわけではない）。

５月もまた面白い月にしていきたいです。ではでは。
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         <pubDate>Sun, 05 Dec 2010 00:07:07 +0900</pubDate>
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         <title>monkey on the moon</title>
         <description>monkey on the moon

という名前のお店を始めました。お店のコンセプトは「らしくない店」です。カメラを販売しているけどカメラ屋らしくない、コーヒーを出すけどカフェらしくない、こいついったい何がしたいんだ、という掴み所のない感じのお店。あ、ここお店だったんだ、と帰るときに気付くくらいお店らしくないお店。

monkey on the moonで扱っているカメラの価格は、オークションとか個人売買を除いてたぶん日本で一番安いと思う。コーヒーだって安くてうまい。宣伝ではなく事実そうなのだ。いまどき２５０円でコーヒーが飲めるカフェがあるだろうか。まあたぶんあるだろうけどあんまりないよね。

どうしてこういうことになっているかというと、そこには僕の短所が大きく影響している。気が小さい、という決定的な短所。この性格のおかげで僕はこれまでいろいろと神経をすり減らしてきた。どうしてもいつも人の顔色を伺ってしまうのだ。

それからこれは本当の話なのだけど、僕はたいてい誰かと一言二言話をすると、その人の持つ空気のようなものをつかむ事が出来る（と思っている）。そしてその空気を取り込んで、最初の３０分は相手の中にもぐりこんでその人から気持ちよく話を聞きだすことが出来る。ただし３０分が限度だ、疲れるから。

少し話がそれてしまったけど、この気が小さいという性格は商売をする上で致命的な欠点だと思う。儲かる商売をしている人っていうのは、要するに人を自分のペースに巻き込む支配力というかカリスマ性みたいなものを持っているのではないか。おれが１０００円というのだから１０００円なのだ、なんかもんくあるか、というような。僕にはそれがない。魂込めて作ったコーヒーに２５０円もらうのでさえ気が引ける。本当はタダで出したい。

で、どうなるかというと

お店に人が来る。びくびくしながらコーヒーを出す。その人と少し話をしてペースをつかむ。あはは、面白いよね、と和む。また来るよ、って言いながらその人気持ちよく帰っていく。

そうやってお金を払わず帰っていったお客が何人いたことか。こうなってくるともはや「お店らしくない」どころかお店ではない。

こういうよくわからないことやっていたせいか、３月はお客がいっこうに入らなかった。かろうじてカメラ部門がそこそこ売れていたので大きな赤字は出さなかったが、これはちょっと考える必要があるのかもしれない。だけどこの人間くさい営業方針はいけるところまでそのままでいきたいとも思っている。面白いから。

これからも温かい応援よろしくおねがいします。</description>
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         <pubDate>Sun, 05 Dec 2010 00:06:41 +0900</pubDate>
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         <title>お店はじめました</title>
         <description>今考えるとお店作りは怖いくらいに順調に進んだと思う。小さなトラブルや面倒くさそうに立ちはだかる障害もいくつかはあった。だけどたくさんの人たちに助けられてなんとか乗り越えてこられた。そのことをいつか忘れてしまわないうちにお礼を言っておかなくてはならない。勝手に走り出した僕を支えてくれた皆さん、本当にありがとう。心から、感謝しています。

２００４年１１月

ようやくハコとなる物件が決まる。物件を決め工事を始めてからはほとんど何も考える余裕がなかった。とにかく早く形にしなくては、と焦っていた。

壁を塗って床を張って、カメラの整備とコーヒーメニューの練習、電気ガス水道、営業許可の申請。やることがありすぎて次の日のことを考えることすら怖かった。その日一日一日のためにひたすら体を動かしていた。この時期の僕を思い出して妻は言う「危ない顔してたよ」と。

だけど工事がだいたい終わり、完成寸前のお店に立ったとき、限りなく僕は怖くなった。逃げてしまいたくなった。出来上がりつつあるお店は何もかもが中途半端に見えたのだ。１月６日に予定していた開店に営業許可の交付が間に合わず、商品であるカメラの仕入れも滞っていた。提供するコーヒーの味はこれでいいのか、紅茶はどうだ、スコーンとパンの焼き具合は。お客さんに堂々と自信をもって薦められるものなんて一つもなかった。

それでも工事は終了し、前の職場の仲間や沖縄の友達から花が届き、お店はひとりでに始まっていった。

２００５年２月

営業許可が下り、正式にmonkey on the moonが始まる。店にはお客が溢れ、道には駐車待ちの車が列をなし店内では人手が足らずに大あらわ、なわけがない。最初の一ヶ月くらいは珍しさで入ってくれるお客さんや、おいおい本当にはじめたのかよ、と不安げに様子を伺いにくる友達でお店は順調に回っているように見えた。だけど台風が通り過ぎれば次には凪がやってくる。そんな感じで３月に入るとぱったりと人が来なくなった。

おいおい、大丈夫かよ。
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         <pubDate>Sun, 05 Dec 2010 00:06:19 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>この一年で</title>
         <description>沖縄編

＊＊＊

　ライフレポートをずいぶん長い間ほったらかしにしていました、ごめんなさい。よく見ると前回の更新が２００４年５月だからほぼ１年くらい放置してた、びっくりだ。その間にあったことをざっと思い出してみると。

　・子供ができました
　・店をはじめました

大きなことはこの二つ。簡単に書いてますがどちらも本当に大きな出来事です。

＊＊＊

子供ができました

沖縄に引っ越してきてすぐに子供ができました。これは大きかった。というかこれがなかったら正直今の僕の店があるとは思えない。子供ができて、うれしくなって、しっかりと人生を考えることが辛いことではなくなった。結果として今のお店ができた。

沖縄に引っ越してきてはじめの数ヶ月は妻と僕とでほとんど何もせずに過ごした。前の仕事をお互いに辞めてから僕達にはそういう期間が必要だと思ったのだ。二人の人生をリセットするための静かな期間。この期間にしっかりと切り替えることが出来たと思う。僕達は文字通りまっさらになることができた。

ところが人間って環境に慣れるとダレる。最初は目的意識を持っていても、沖縄に慣れるにつれ次第にどうでもよくなってくる。悪い意味ではなく沖縄とはそういう場所なのだ。大きな夕日が真っ青な海に沈んでいく様子なんかを毎日眺めていると、もうどうでもよくなってくる。くよくよ考えるのに開放的な場所は向いていないのだ。

もしこのタイミングで子供ができていなかったら、と考えると少し恐ろしくなる。今でもあのままリセット期間が続いていたかもしれない。目的をなくし、ただただぼうっと夕日を眺めて暮らしていたかもしれない。まあそれはそれで悪くない人生なのだけど、僕たちは目的をなくすために元の生活を辞めたわけではないのだ。

お店、始めました

沖縄に引っ越してきた目的の一つが「自分でお店を開くこと」だった。これを実現するために手探りの状態から一つずつ積み上げて、２００５年１月 monkey on the moonという店が出来上がった。こうやって書くと一応の目的は達成したかのように見えてしまうが、実際に開店してみるとそれが単なる始まりにすぎないということを痛感することになる。それはもう本当に身にしみて、つくづくそう思う。これからなのだ。

お店のことについては次の回から詳しく書いていこうと思います。ちゃんと更新します。するつもりですので期待しないで待っていてください。
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         <pubDate>Sun, 05 Dec 2010 00:05:56 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>引っ越しました</title>
         <description>沖縄です

＊＊＊

　ようやく落ち着いてきました。引越しが、というよりも、自分が。
３月後半に陥った底なしの鬱状態を乗り越え、というか結局乗り越えられなかったのかもしれないが、時間が勝手に過ぎ、４月に入ると徐々に気持ちが上向きになってきた。あの時あんなにいろいろ悩んだのが、今ではすごく昔のことのように思える。
　一つ前のライフレポートとか読むと、いやね、その気持ちもわかるけど考えすぎだよおまえ、とか思う。だけどあれを書いたのもやっぱり僕なのであって、時間の流れの偉大さというか、考えてもどうしようもないことはしばらくほうっておくのがいいのだ、という人生の大切な法則みたいなものを実感している次第。

　４月に入って上を向いてきたとはいえ、こちらに来て１週間くらいの間は、僕なりに相当深いところを漂っていた。昼間の間は、事務手続きやら引越しの荷解きやら、それから沖縄の強烈な日差しを避けるのに精一杯だったりして、あまり何も考えなくてすんだ。だけど夜になればやっぱり沖縄でも涼しい風が吹く。昼間ちゃんと動いているので、夜には疲れきってしまい、その疲れが僕たちの気持ちの弱いところに涼しいすきま風みたいに入り込んでくるのだ。うう、さびしいよう。
　 こういう風に１週間くらいは、夜な夜などんよりとさびしい気持ちになっていた。ホームシックってこういうことをいうんだ、と初めて思った。

ようやく、ですが

僕が今それなりに立ち直って、ああなんか楽しいかも、と思うことができていられるのには、いくつもの支えが必要だった。具体的には、こちらで友達ができ始めたということ、海に入ることができ始めたということ、それから僕には妻がいるし、やっぱり一人ではないということ。一人では生きていけないのだ、やっぱり。

切り替えなきゃ

　ということで会を増すごとに下へ下へともぐり続けてきたライフレポートは、ここでひとつ区切りをつけたい。ここからはぱーっと力みなぎり血沸き肉踊るライフレポート第二章、沖縄編をはじめます。みなさん、これからもよろしく。

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         <pubDate>Sun, 05 Dec 2010 00:05:29 +0900</pubDate>
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